
(この記事は2019年5月27日に更新されました。)
「円谷幸吉さんの実績を知りたい」
「円谷幸吉さんがどんな選手だったのか知りたい」
この記事はそんな方に向けて作成しました。
目次
円谷幸吉さんはどんな人物だったか?
円谷幸吉さん(1940-1968)は福島県出身のマラソンランナーです。1964年の東京オリンピックでは10000mで6位、マラソンで東京五輪の日本陸上勢唯一のメダルとなる銅メダルを獲得しています。
自衛官として自衛隊体育学校で練習を積み結果を残しますが、東京五輪後の故障、縁談の破談などの不幸が重なり27歳の若さで自ら命を絶ちました。
円谷幸吉さんの自殺は、競技者の苦悩の深さや過度の期待が生み出す精神的負荷の高さを明らかにした悲劇として知られます。残された遺書の文面には川端康成や三島由紀夫も深い共感の意を表明し、悲しみが広がりました。
円谷幸吉さんが東京オリンピック銅メダルを獲得
もともとトラック競技の選手だった円谷さんは、初マラソンから3週間後のオリンピック選考会を兼ねた毎日マラソンに出場し、2位となり東京オリンピック代表の座を射止めました。
東京オリンピックではともに出場した君原選手、寺原選手にメダル候補としての期待がかかっていましたが、圧勝だったアベベについで日本人トップで競技場に飛び込んできたのはなんと伏兵、円谷幸吉。
国立競技場に入った時点で2位でしたが、トラックでイギリスのヒートリー選手に抜かれて3位でフィッシュしています。「男は振り向いてはいけない」という父の教えを守った結果、抜かれる時まで迫っているヒートリー選手に気づかなかったそうです。
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円谷幸吉さんが抱えた一流選手だからこその苦しみ
東京オリンピックでの活躍以降、円谷さんは深い苦悩を抱えます。トラックで抜かれたことを気に病んだ円谷さんは、4年後のメキシコオリンピックでの金メダル獲得を宣言。結果としてこれが気負いにつながってしまうのです。
まとまりかけた縁談が当時の自衛隊体育学校長からの「オリンピックの方が大事」という反対により破断し、精神的に追い詰められていった円谷さん。繊細な性格から、国民の期待に応えようとオーバーワークを重ねたことにより椎間板ヘルニアを発症して全盛期のような走りはできなくなっていきました。
円谷幸吉さんは遺書を残しこの世を去った
円谷さんの遺書は「父上様母上様三日とろろ美味しうございました」の一文から始まり、訥々と家族と親戚に感謝の意を書き連ねたものでした。最後には「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と記され、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」と結ばれます。
27歳で命を絶った若き天才ランナーの繊細な心には、国民からの期待や周囲から与えられたプレッシャーは大きすぎました。
今でもスポーツ選手が命を絶つことや、精神的不調に陥ることは珍しくありません。1秒や1プレーのために毎日苛烈なトレーニングを重ね、国民の期待を小さな肩で背負う異常な環境の中では、鋭敏で繊細な感覚を持った人は精神が崩壊してしまうのも当然なのかもしれません。
メキシコ五輪銀メダルの君原健二選手はトラックで「振り返った」
東京オリンピックでは8位に沈んだ君原健二選手は、円谷さんの思いも胸にメキシコオリンピックで銀メダルに輝きました。
ゴール直前で3位の選手が後ろに迫った時、君原選手は普段しない「振り返り」をしたといいます。その時を回顧し「円谷君の陰の声が振り返らせたのかもしれない」と語っています。
まとめ
- 円谷幸吉さんは東京五輪のマラソンで銅メダルを獲得した
- この銅メダルは東京五輪の陸上競技種目で日本勢唯一のメダル
- 故障や過度の期待などにより精神的に追い詰められ27歳でこの世を去った
1988年千葉県産。25歳に走り始めた。サウナーでありロングスリーパー。ミドルレンジのトレイルレースを中心に走っている。おんじゅくオーシャントレイル2020、みたけ山トレイルラン2019などで優勝。PBはハーフが1:10、フルが2:35。
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