円谷幸吉。東京オリンピックでの銅メダルと深き苦しみ

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驚くウサギ

アベベが圧倒的な強さで優勝した東京オリンピック。

銅メダルには、全国民の期待を背負い走った円谷幸吉(つぶらやこうきち)氏が輝きました。

その活躍と深い苦しみに迫ります。

円谷幸吉とは?

円谷幸吉(1940-1968)は、福島県出身のマラソンランナー。1964年の東京オリンピックで銅メダルを獲得しています。

自衛官として自衛隊体育学校で練習を積み結果を残しますが、繊細な性格、縁談の破談などの不幸が重なり27歳の若さで自ら命を絶ちました。

この悲劇は、競技者の苦悩の深さや、過度の期待が生み出す精神的負荷の高さを明らかにしました。
残された遺書の文面に、川端康成や三島由紀夫も深い共感と哀しみの意を表明しています。

東京オリンピックまで

10000mでも東京オリンピックに出場しており、もともとはトラックの選手だったがマラソンもやるように。初マラソンから3週後のオリンピック選考会に出場し東京オリンピック代表になりました。

東京オリンピックではともに出場した君原選手、寺原選手にメダル候補としての期待がかかっていましたが、日本人トップで競技場に飛び込んできたのは伏兵、円谷幸吉。

競技場に入った時点で2位でしたが、トラックでイギリスのヒートリー選手に抜かれて3位でフィッシュしています。
「男は振り向いてはいけない」という父の教えを守った結果、抜かれる時まで迫っているヒートリー選手に気づかなかったそうです。

一流選手だからこその苦しみ

東京オリンピック以降は、苦しみの中でもがく日々が続きます。

トラックで抜かれたことを気に病んでいた円谷は、4年後のメキシコオリンピックでの金メダル獲得を宣言。結果としてそれが気負いにつながってしまいます。

まとまりかけた縁談が当時の自衛隊体育学校校長からの「オリンピックの方が大事」という反対により破断し、精神的に追い詰められていった円谷。さらに、国民の期待に応えようとオーバーワークを重ねたことにより椎間板ヘルニアを発症して全盛期のような走りはできなくなっていました。

幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません

「父上様母上様三日とろろ美味しうございました」の一文から始まり、訥々と家族と親戚に感謝の意を書き連ねた円谷の遺書。

最後には「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と記され、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」と結ばれます。

27歳で命を絶った若き天才ランナーの繊細な心には、抱えた不安や国民からの期待は大きすぎたのです。

今でも、スポーツ選手が命を絶ったり、精神的不調に陥ることがままあります。1秒を削り出しライバルを蹴落とす、国民の期待を小さな肩で背負う異常な環境の中では、鋭敏で繊細な感覚を持った人は精神が崩壊してしまうのも当然なのかもしれません。

「振り返った」君原選手。円谷さんからのメッセージ

東京オリンピックでは8位に沈んだ円谷のライバル君原選手は、円谷の思いも胸にメキシコオリンピックで銀メダルに輝きました。

競技場手前で3位の選手が後ろに迫った時、君原選手は普段しない「振り返り」をしたといいます。それは、かつてのライバルへの円谷さんからのメッセージだったのかもしれません。

 

 

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