トレイルレースで後半粘ることが年々難しくなってきた

空也上人像カエル

「最近、終盤で粘ることが難しくなってきた」
「レース終盤でメンタルをコントロールするのむずい」

この記事ではそんなことをつらつらと書いてみました。

トレイルレースの後半で粘れない

僕は昔からレース終盤に弱い。競ったレースではたいてい振り切られているし、フルマラソンでは35㎞以降ガタガタとラップタイムが落ちていく。そして、いったん落ち始めたら再浮上することはまずない。とことん底の底へ落ちていくだけだ。

後半に粘れるような練習が足りていないこともあるだろうけれど、どちらかと言えばメンタルによるものだと思う。体が痛い、苦しい、ダルいというサインを送ってきた時に、「いやいやまだ頑張れるでしょう、もうちょいやりましょうよ」となだめることができない。「そうですよね、無理は禁物!ペース落としましょう」と自分を甘やかしてしまうのだ。

これは、トレイルランナーとしては望ましくない傾向だが、昔からそうだったわけではない。トレイルランを始めて1、2年の頃は、よくこんなになるまで走れたなと自分でも関心するくらい追い込めたものだ。

トレイルランを始めてからはや7年弱。僕の中で何が変わったのだろうか。

なぜトレイルレースの後半で粘れなくなったか?

僕の場合、レースやトレーニングで得た経験や知識が、「後半の粘り」に関しては足かせになっている。つまり、あーだこーだと考えすぎて、本来シンプルなはずの走ることをややこしくしてしまっているのだ。

初心者の頃は、そもそも走り方もペース配分もわからない。さらには、後半に訪れる体の異変や苦しみがどんなレベルのものかも判断できない。だから、フィニッシュ目指して力を振り絞ることに体と精神の全てを向けることができた。シンプルだった。

経験を積んだ今は、体の状態に過剰に意識を向けてしまい、脳に不必要なリミッターをかけてしまっている。

「経験」が強みになる人と、足かせになる人がいるが、僕は今のところ完全に後者だ。「経験は多い方がよい」わけではなく、自分の中で消化して、そして支配されないようにコントロールできてこそ意味がある。

人間は基本的に「知れば知るほど恐怖を感じる」ものだと思う。ハタチの時は乾杯と同時に飲みほしたビールも、ミソジを迎えればテーブルをしっとり濡らしながら泡を消していく。どこのサウナでも10分は必ず入っていたのが、最近では5分であっさり出ることもある。それが年をとることかもしれないが、どこかで抗わなければ、ひたすら流されていく。

よい年の取り方をしている人は、自分に起きた変化を見逃さず、つかんで学んだ人だと思う。

僕がトレイルレースの後半で粘れなくなっていることは精神的な変化の一つの表れだろう。今こそ、恐れることなく駆け抜ける体験が必要だと感じている。「経験」を血肉とできるように工夫していきたい。たとえ限界を超えたと思っても、人間はそのほとんどの機能を使いこなせていないのだから安心だ。

 

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