
(この記事は2019年9月11日に更新されました。)
「金栗四三がどんなランナーだったか知りたい」
「いだてんの主人公はどんな人だったのか知りたい」
この記事はそんな方に向けて作成しました。
目次
金栗四三はこんな人
2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」の主人公は、日本人初のオリンピック選手で箱根駅伝の発案者でもある金栗四三(かなくりしそう)です。まずは、金栗四三はどんな人物かをザクっと見ていきます。
金栗四三(かなくりしそう)
- 1891年熊本県玉名郡生まれ。1983年に92歳で他界。
- 1912年ストックホルムオリンピックにて、日本人初のオリンピック選手としてマラソン競技に出場。
- 1920年アントワープオリンピック、1924年パリオリンピックにも出場し、その後引退。
- 箱根駅伝発案者の一人
ちなみに、箱根駅伝の最優秀選手に贈られるのは「金栗四三杯」です。富士登山駅伝一般の部の優勝チームにも同じく「金栗四三杯」が贈呈されます。
金栗四三と陸上の出会い
金栗四三は地元の学校を卒業後、現在の筑波大学である東京高等師範学校に入学します。当時の学校長は柔道の父として有名な嘉納治五郎。学校を挙げてスポーツに取り組んでおり、年に2回のマラソン大会を実施していました。
金栗四三は入学直後のマラソン大会では25位だったものの、秋の大会では3位でフィニッシュ。1年生としては抜群の成績だと嘉納治五郎学長からも褒められています。そこから、徒歩部(陸上部)に入部。マラソンランナーとしての道を歩み始めました。
金栗四三は日本人初のオリンピック選手
順調に力をつけた金栗四三は国内屈指のランナーになりました。そして、1911年に開催されたストックホルムオリンピックのマラソン競技予選会に参加。足袋を履いて出場し、当時の世界記録を27分更新する2時間32分45秒で優勝しました。
ちなみに、この予選会の距離は25マイル(40.225㎞)。1924年のパリオリンピックで42.195㎞に固定されるまで、マラソン競技の距離は毎回違ったのです。
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ストックホルム五輪のマラソンを54年かけて完走
翌1912年のストックホルムオリンピックで金栗四三は、日本人初のオリンピック選手としてマラソン競技に参加しました。フィニッシュタイムは、54年8か月6日5時間32分20秒です。
ストックホルムまでの移動の疲れ、白夜での睡眠不足、最高気温40℃などのバッドコンディションが重なり、レース途中で金栗四三はコース外で意識を失い倒れます。現地の農家で介抱され無事だったものの、目覚めたのはレース翌日のこと。すでにレースは終わっていて、棄権ではなくレース中の失踪による行方不明扱いになっていました。
時を越えたフィニッシュ
時は過ぎて1967年。金栗四三はストックホルムオリンピック開催55年記念式典に招待されます。この式典を準備している時に、オリンピック委員会が金栗四三の「行方不明」に気付いたのがそのきっかけ。54年の時を越えてフィニッシュさせるために金栗四三を呼んだのです。
競技場を走りテープを切ると、場内アナウンスで「54年8か月6日5時間32分20秒」のタイムが読まれ、第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程の終了が告げられました。なんて粋な計らいでしょうか。
金栗四三はオリンピック3大会に出場
次のベルリンオリンピックは第一次世界大戦の影響で中止されました。ストックホルムから8年後の1920年のアントワープオリンピックでは16位になり、1924年のパリオリンピックは途中棄権。その後、金栗四三は競技人生を終えています。
この間、1920年の第一回箱根駅伝の開催にも力を尽くし、日本マラソンの父として後世に名を残す存在になりました。
1988年千葉県産。25歳に走り始めた。サウナーでありロングスリーパー。ミドルレンジのトレイルレースを中心に走っている。おんじゅくオーシャントレイル2020、みたけ山トレイルラン2019などで優勝。PBはハーフが1:10、フルが2:35。
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